聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書15章11-32節
メッセージ:中山仰牧師
ルカによる福音書15章には3つのたとえ話が集められています。一匹の「見失った羊」が羊飼いによって捜し出されたときの喜びと、失われたたった一枚のわずかな価値の銀貨でさえ、全力をあげて、何を差し置いても捜し出す行為に見るように、取るに足らない私たちを捜し求める主の愛が、見事に例えられたお話しであることを知りました。
いよいよ、人間である「放蕩息子」のたとえが始まります。「ある人に息子が二人」いました。15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。普通父親が生存中に財産の分け前は配分されません。相続財産は通常兄が3分の2で、弟は3分の1です。弟はそれを受け取ると、全部金に換えて遠い国に旅立ちます。遠い国とは、多分アフリカではないかと言われています。後で豚飼いの世話になることから、ユダヤ人が決して食べることのない豚が身近に飼われていることから推測できます。
放蕩の限りに持ち金を使いつくし、その上ひどい飢饉が起こりました。15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』それに対して、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。のでした。この「憐れに思い」という言葉は、「腸が揺れ動く」感動を含んだ言葉です。良いサマリア人の譬えでは、瀕死の重体であったけが人を、敵対していたサマリア人が助けて解放したというお話でした。神に敵対していた神の前に立てない私たち罪深い者を神が一方的に憐れんでくださったのです。もしそれがなければ、私たちは救われることができません。このように父から離れ、いわば勘当されていた弟息子の心は間違いなく死んでいたのです。息子は窮地に陥ってはっと思いました。自分はもう死に体でしたから、その資格は全くないけれど、どうせ奴隷になるなら父親の雇人の一人にしてもらおうという覚悟で戻ってきたのでした。その時、父親は息子を抱きしめて、一所懸命言い訳を練習してきた息子の言葉「雇人の一人にしてください。」を最後まで言わせていません。父に抱きしめられた者は、もう奴隷ではありません。主もおっしゃっています。もはや「あなたを僕(奴隷)とは呼ばない。友と呼ぶ」(ヨハネ5:15)と抱き寄せてくださるのです。そのしるしに、父親はいちばん良い服を着せただけでなく、「手に指輪をはめて」くれました。この指輪は、日本の印鑑と同じで父親の財産の決済を可能にするものです。そして、「肥えた子牛を連れて来て屠り」食べて祝おうと豪勢にもてなします。この態度は少しやりすぎではないかと思えなくもありませんが、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」という理由からです。死んでいた者が生き返るということは何に替えても喜びなのではないでしょうか。ここに聖書の神の恵みがあります。
ところで、後半のもう一人の息子の兄の方です。彼は帰って来たときにどんちゃん騒ぎを聞きつけ、僕から状況を説明されたときに怒って家に入ろうとしていませんでした。そこでも父親の方から出向いて彼を迎えに行っています。ここにも父の迎える姿勢が一貫しています。兄は「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。」と怒ったのです。この「仕えている」という言葉は、奴隷が従うという言葉です。つまり、兄は心から父に従っているのではなく、嫌々、渋々仕えていたことになります。この言葉から兄の心理を知ることができます。弟と同じように放蕩したいという気持ちを持ちながら我慢していたのでしょう。ですから好き勝手にやっていた弟が帰って来たことにただ腹を立てて、その上父親が寛大に扱い、それどころか指輪をはめてやり、盛大な宴会を模様しているのですから、怒り心頭に達しているです。この兄は実の弟をすでに見捨てています。ですからこの兄も父の近くにいながらも、その心は父親からまるで離れていたのです。つまり兄もまた死んでいた状況なのです。その彼にも父は「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」となだめています。
兄がユダヤ人なのか、先に救われたキリスト者なのかと解釈に別れますが、いずれにしろ兄の場合、自分がそのように死んでいるということを自覚していないならば、私たちも兄と同じように他人を蔑むということが起きるでしょう。これが教会の中で、主にある兄弟姉妹に対して起きてしまうならば、教会を混乱と不一致に陥れることになります。そのような人はまた、教会の中でも自らを自慢していたり、こうあらねばならないという一つの決まりを自らの内に確立して、他の人たちに強制し、その立場をもって他人を批判することを平気でするタイプでしょう。このような態度は、信仰的には死んでいるのです。一人の小さな者をさえ憐れまれる主に立ち返ることなくて生きられません。
父なる神はただ砕けた心をもって主を求め従う者を快く迎えてくださいます。
田無教会牧師 中山仰
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