聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書24章36-53節
メッセージ:中山 仰牧師
ここはルカ版の大宣教命令です。ルカはそれをキリストの事業計画(達成方法)として具体的に描きます。
1.事業計画の基礎は、キリストの御名に基づきます。
復活の主イエスは、エマオ途上で出会った弟子たちの報告を聞いて驚いている弟子たちに対して、彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と祝福されたのですが、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思ったの」でした。このように信仰の弱い彼らを用いて主の証人として、伝道の働きに召し、派遣されるのです。これまでもいろいろと訓練されて来ましたが、最後の時に至って最終訓練を施して送り出されます。
ですから、彼らの不信仰を嘆きながらも「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってみなさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」と励ましてくれます。それに対する弟子たちの反応ですが、「こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっている」という一見矛盾した光景が展開されます。
罪の赦しを得させる悔い改めについての説教は、主イエスの御名を宣べ伝えることから切り離すことはできません。主の言葉を宣教するのですから、弟子たちである私たちは宣教の内容を正しく知らなければなりません。そのためには証言者とならなければなりません。主の死と復活の確信を抱くことです。
弟子たちの喜びはどこから出て来るのでしょうか。弟子たちにとって、一番のリアリティは主と食事をしたということです。復活の主が現れて「手や足を見なさい。・・・触ってみなさい」と招いているのに弟子たちは信じませんでした。そこで主は「ここに何か食べ物があるか」とおっしゃって、焼いた魚が一切れ差し出されると「イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」のでした。飲食こそ、幻や幽霊でない決定的な復活の最上の確証です。これは、当時の教会にはびこり始めていた仮現論の異端への反駁です。
このような復活の主と会食ができることは、いかに私たちの主が身近であるかということにつながる喜びの福音なのではないでしょうか。キリスト・イエスは復活されてからも実に庶民的です。それは理想的な教会の権威者として君臨するのではありません。当時隅に追いやられていた女性に、また主を否んだ背教のシモンに、絶望のクレオパたちに、疑い深いトマスに、月足らずに生まれたようなパウロに現れられるお方なのです。
キリストの尊い犠牲がささげられたことが指し示されるその真只中にあって、わたしたちは開いた目と開いた耳とをもって、神の国のただ中で主イエスと共に食卓につくことが許されています。このことは今に至るまで、主の聖餐として進められて行きます。主が現臨しつつなされたあの祝いの食事の継続という性格を持っているのです。そのような意味からも、教会が祝う聖餐の中で「主が渡された夜」が振り返り見られる間に、そのままであの夜の中に踏みとどまっているということはあり得ないことです。教会の活動を通して、また私たちの証を通して「主の死が告げ知らせられ」ます。
2.さて次に、伝えるべき内容について教えられましょう。それは「あなたがたに言っておいたことである」。つまり26節「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」ということ、それがすべて必ず実現したではありませんか。主イエスの生前の予告と旧約聖書の預言とが、後において成就したのですから、未来に関わる計画の予告と預言も絶対確実に実現するという強い確信をもちましょう。
今次のコロナウィルスの蔓延において、「主よ、どうしてこのような恐ろしいウィルスが蔓延するのでしょうか。それをどうして抑えてくださらないでしょうか。礼拝も変更した形で行わなければなりません。全く礼拝ができない欧米の脅威会を顧みてください。」と祈るほかありません。このような祈りにおいて、主が救い主ならば顧みてくれて当然という頭がどこかで働いている傲慢をもっていることに気が付かされます。
決定的に主を土壇場で裏切った弟子たちも復活の主の方から現れて、招き寄せてくださいました。それによって彼らは再び立ち上がることができました。それなくして、誰が主の元に帰ることができたでしょうか。
もちろん、聖書を悟るためには、復活の主に触れなければなりません。「聖書を悟る」ということは、「心の目が開かれる」ことでもあります。復活の主こそ、復活の主だけが「愚かな人」「心の鈍い人」の心を開く方です。聖書は社会学的にとか、政治学的に、文学的に読む者ではありません。エマオ途上で復活の主に道々聖書を解き明かしてもらった二人の弟子たちのように、復活の主に心開かれて「心は内に燃える」ような思いで読んでから世に出て行くべきです。
3.救いの事業計画を担うのは誰でしょうか。ふさわしい適格者が別途立てられるのではなく、あなたがたつまり漁師や、徴税人であるあなたがたこそ証人になるとなります。宣教の開始すべき出発点は、遥か彼方の理想郷から特別に優れた人が担うのではありません。ここ「エルサレムから」です。主を捨てたここから、主を否んだまさにここから、主の十字架を眺めたここから、全面的に期待を掛けていたのに希望を失ったここから、罪と恥に満ちたここ「エルサレムから始め」なくしてどこから始まるのでしょうか。
最後に主イエスの祝祷が載せられてこの福音書が終わっています。マタイの宣教命令の言葉を借りるならば「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)という熱烈な愛の関心、共存を示します。主はその言葉の額面通りに離れて行かれたのではなく、全き愛なるお方として、私たちにさらに一層近くなられたのです。
ですから、このお方に大胆に近づこうではありませんか。教会や牧師は牧会的な祈りもさせていただきますが、信徒のお一人お一人が、遠慮なくそれらを通して生けるまことの大祭司であるキリスト・イエスの恵みの御座に近づいていただきたいのです。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」復活の主がすぐ近くにおられます。
田無教会牧師 中山仰
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