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日本キリスト改革派 田無教会

2023年5月14日「わたしたちはどうしたらよいのか」主日礼拝

  • 聖書箇所:使徒言行録2章37-41節

 

ペンテコステの祭日の朝、弟子たちの目にも、群衆の目にも明らかに、聖霊が注がれました。

使徒ペトロは、その時聖霊を送ってくださったのが、ユダヤ人たちが(その御名を貶めることによって)殺してしまったイエスである、と解き明かしました。ペトロの説教は、イエス様を主と証しすると同時に、イエス様を貶(おとし)めた聴衆の罪を指摘しました。

ペトロの説教を聞いた聴衆は「大いに心を打たれ」ました(37節)。彼らの心には大きな痛みが生じたのです。救いの日々の到来のしるしである聖霊は、ペトロの口を用いて、ユダヤ人たちに大きな痛みを覚えさせました。イエス様を貶めるという罪を犯した彼らは、救いから漏れてしまったのでしょうか。そうではありません。ペトロの説教は、まだ、続きます。

37節。聴衆はペトロとほかの使徒たちに「兄弟たち」と呼びかけますが、これは29節で「兄弟たち」と親しく呼びかけたペトロへの応答です。「教える」ペトロと、「教えられる」聴衆は上下関係でなく、共に罪人として、水平で親しい関係にあります。

しかし、使徒たちの方が「罪赦され、聖霊が注がれた」という点において、聴衆よりも一歩リードしていました。罪人でありながら心の痛みに苦しまず、聖霊を受けてしっかり立っている使徒たちを見て、聴衆は自分たちにも罪の苦しみから解放される道があるはずだと思ったのでしょう。それで「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問わずにいられなかったのです。

38節のペトロの答えは、「悔い改めなさい」と「洗礼を受けなさい」の二つの命令形が核です。文法的には命令形ですが、ペトロの説教は基本的に「力強い証し」であり「勧め」です(40節)。この二つの命令形も、命令口調の強制でなく、一歩先行く兄弟からの「勧め」です。

「悔い改める(メタノエオー)」は「後で(メタ)・悟る(ノエオー)」という意味で、悟った結果これまでを反省し、まるで生まれ変わったかのように方向転換することをも意味します。その意味では、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問うた時には既に、聴衆たちの悔い改めは始まっていたとも言えます。ペトロは勧めによって、悔い改め始めた彼らの背中を押し、真の悔い改めに至るよう促しています。

聴衆は、イエスの御名を貶めたことを反省し、イエス様こそ救い主キリストだと認め告白する生き方へと方向転換するよう勧められています。40節「邪悪なこの時代から救われなさい」も同じで、イエスを主と受け入れない時代・世代・世の中にどっぷりつかっている状態から足を洗い、イエスを主と告白しながら歩む人生への、方向転換への勧めです。

悔い改めは、「内心そう思う・信じる」だけでなく、「生きる」という具体的行動として表れるものです。「イエス・キリストの名によって洗礼を受ける」ことは、悔い改めの具体的実践の第一歩です。その人の悔い改めが、洗礼によって表現されます。その洗礼は「イエス・キリストの名による(名に基づく)」洗礼でなければなりません。「キリストの御名によって、罪から聖められたのだ」と表現する洗礼でなければ、イエスを主と信じる人生の表現にはならないのです。

ペトロは、「悔い改め」て「洗礼を受け」れば、「賜物として聖霊を受け」ると教えます。(悔い改めには聖霊の働きが不可欠なので、厳密には、その人が既に聖霊を受けたということが、悔い改めと受洗を通して明らかになる、というくらいの意味でしょう。)聖霊を受け(たことが明らかにな)ることは、その人と神様との結びつきを確証できる、ということです。自分自身が神様と結び合わされていた!と悟る時、刺し通された心の痛みも癒されたことに気づきます。

体の痛みは病のサインであり、鎮痛薬でやり過ごすのは根本的解決ではありません。罪を自覚させる心の痛みも、痛みから逃げようと神様や罪から目をそらしていてはいけません。自分の罪を認め、神様に向き直り、イエス様こそ救い主だと告白して生きることが、痛みからの永遠の解放への唯一の道なのです。

悔い改めとその表現である受洗が、神様が示された救いの約束への道であるという事は、旧約聖書(たとえばイザヤ1:27)やイエス様ご自身(ルカ24:47)が示した、確かなことです。

39節。救いの約束について、ペトロは、聴衆だけでなく(時代を超えて)子孫たちも、(場所や民族を超えて)遠くにいるすべての人たちにも与えられていると証しします。そして、約束が与えられている者たちとは、「私たちの主が招いてくださる者」です。救いに与るために、人間の側が努力や特別な手続きをする必要はありません。むしろ先に神様が召して招いて、聖霊のお働きを及ばせてくださったので、その人は約束を受けることができるのです。

41節。ペトロの言葉を喜んで受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千ほど(の魂)が仲間に加わり(加えられ)ました。彼らは他に選択肢がなくて渋々と…ではなく、喜んで悔い改め、洗礼を受けたのです。聖霊は、救いの道を喜んで歩むようにも促します。彼らは魂において(全人的に・永遠に)救われた者の仲間に加えられました。加えてくださったのは、神様です。

ペトロが罪を指摘する説教(22-36節)をしたように、説教の言葉は優しく心地よいだけでなく、時に厳しい場合もあります。聖書が、読者を悔い改めさせて救いに導くために、愛をもって罪を指摘することがあるからです。その御言葉にふれるとき、読者は神様の愛と同時に痛みをも覚えなければなりません。自宅や教会で聖書を読む時、罪を指摘され痛みを覚えることがあると思います。その時、ペトロの「悔い改めなさい、洗礼を受けなさい」という勧めを思い出してください。すでに洗礼を受けた方は、神様に向き直り、洗礼を受けた日を思い出し、救われた確証を新たにしてください。救いの約束は神様に招かれた私たちにも与えられています。ですから、罪の自覚とそれゆえの痛みがあっても、私たちはキリストと、キリストが注がれた聖霊のお働きのゆえに、悔い改め、救いを確信して、歩むことができるのです。

(牧師 伊藤築志)

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