聖書箇所:コリントの信徒への手紙一 12章27-31節
礼拝後に定期会員総会を予定しています。総会の中で「標語聖句」と「教会標語」が提案されます。標語聖句は12:27、教会標語は「キリストの体として生きよう。」です。この説教では、27節の解釈を分かち合いながら、私たちがその御言葉をもってどのように教会生活を送っていけばよいかを一緒に考えたいと思います。
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27節。「あなたがた」とは、コリント教会のことです。「教会」のギリシア語「コイノーニア」は、分け前に共に与る「交わり」「参加」という意味の名詞です。ですから、「交わりのない教会(コイノーニア)」「参加者のいない教会(コイノーニア)」はあり得ません。「一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらった(12:13)」教会に欠かせないのは、ひとりの神様をあがめる「礼拝での交わり」「礼拝への参加」にほかなりません。礼拝によって一つになるのが、教会の本来の姿です。
にもかかわらず、当時コリント教会は、一つになり切れていませんでした。というのも、コリント教会内には、「あの人は教会に必要か」と互いに評価し合うような、ギスギスした雰囲気があったようなのです。尺度として、異言の賜物が重視されました。「異言」というのは恍惚状態でなされる、他の人には理解できない、意味不明な言語での神賛美です。14:4のとおり、異言は教会形成にあまり役立ちません。しかしコリント教会では、異言を語れることこそが聖霊の御力を豊かに受けていることの証拠であるかのように考えられ、皆それぞれに、異言の賜物を手に入れたいと熱心に努めていたようです。
「一つ」ということが「一丸となる」ということであればよいのですが、「皆がそれぞれに一つ(単一)のものを追い求める」ことだと、そこに競争が生まれ、ランキングされるようになり、教会としての一体性がなくなっていきます。パウロは、単一の賜物に偏り一体性を欠いてしまったコリント教会に「健やかな教会」の在り方を教えるために、教会を「キリストの体」にたとえました。健やかな「体」全体には一つのものとしての調和があります。キリストを頭(かしら)とした「キリストの体」なる教会も、頭(かしら)であるキリストのために仕えるという健やかな調和が期待されます。
パウロはさらに「一人一人はその部分(肢体・臓器・器官)です」ともたとえました。器官はそれぞれに機能が違いますが、体の中で調和し、体全体が一つの活動をできるようにします。同様に教会も、キリストに仕えるという一つのことを行う中で、ある人は説教に、ある人は執事職に、長老職に、奏楽に、受付に、説教聴聞に、賛美に、祈りに、仕えます。一人が複数のわざを担うこともありますが、一人一人には違いがあります。それぞれが調和して、キリストの体としての一つの働きをなします。
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28節。ここで注目すべきことは、異言が最後に挙げられていることです。コリントの教会の人々は「第一に異言!」と言っていたでしょうが、それに対してパウロは「異言を語る賜物を、箇条書きの最後に挙げても差し支えない。それは飛びぬけて尊いわけではない」と教えたのです。
そういう文脈の中で「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師」と敢えてナンバリングされているのは、それらの働きがキリストの体の心臓部だからです。教会活動の目的と方向性を示す御言葉を扱い、説き明かし・教会の現実に適用し・教える働きは、実に、教会の心臓部です。
ただし、体は心臓だけでは動きません。心臓を助け支える他の器官が必要です。実に、心臓と他の器官とが互いに支え合い、互いに良い意味で依存し合ってこそ体が成り立ちます。教会も同様に、心臓部以外の働き(奇跡・癒し・援助・管理・異言など)があってこそ成り立ちます。田無教会に置き換えて言うなら、御言葉に仕える心臓部だから牧師だけが必要とか、心臓部でないから他の奉仕は切り捨て可能だとかいうことは決してありません。教会の中で、牧師の働きが最大限に生かされるために、教会員の全ての働きが必要です。全体が互いに支え合い、良い意味で依存し合って、ひとりのキリストに仕えるのが、教会の健やかな姿です。
31節。「大きな」とは、そのものの大きさよりも(良い)影響力の大きさのことでしょう。異言よりも「使徒・預言者・教師」の働きの方が、その意味では「より大きい」と言えましょう。14:1でも言われる通り、異言の賜物よりも御言葉に仕える働きの方が追い求められるべきです。
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しかし何度も言いますが、「より大きな賜物」が無いからと言って「あいつ/私はダメだ」とはなりません。神様から受けたそれぞれの賜物を全体の利益のために(12:7)献げることが大切です。31節後半でパウロは「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と記します。その最高の道とは「愛」です。たとえ預言ができても、愛がなければ無意味です(13:2)。
聖書の「愛」は、相手をふさわしく尊重することです。教会にとっての最高の道は、すべての人がキリストの体の部分としてふさわしく尊重されることです。たとえ目に見える「奉仕」ができなくても、キリストの体の部分だというだけで尊重されます。心臓部の働きだけが教会を健やかにするのではありません。実に、部分が互いに愛し合う時、教会が本当に教会になります。
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新型コロナと言われて3年経ちます。この3年間、教会(コイノーニア)の「交わり」「参加」は大きな制限を受けました。その悪影響によって、教会の一人一人は痛みを抱えてしまっていませんか。まだ、コロナの影響を受けそうです。このような時期だからこそ、私たちは礼拝の「交わり」「参加」に集中しようではありませんか。教会に集められた私たち一人一人が、キリストの体の器官です。人の目には微少な奉仕しかできないように見えても、それを用いてくださるのは神様です。私たちはただ、互いを尊重する愛をもって、教会生活を送りましょう。礼拝に集中し、キリストの体に連なる器官として、キリストのため・体全体の利益のためにできることをしましょう。
そのための愛そして力(栄養)の源は、キリストにつながっていることです。キリストとの交わりである祈りを、教会のためにも続けましょう。
(牧師 伊藤築志)
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