聖書箇所:使徒言行録5章1-11節
聖書は、約2000年前の最初期の教会の有様について、「心も思いも一つ」の群れであったと証言しています。最初期の教会において、信者は自発的に財産を群れの中で共有し(教会にささげ)、群れの中の貧しい人々を助けることで、神様による救いを証ししました。信者の中には、全財産を教会にささげたバルナバという人もいました。
しかし当時の教会も理想郷ではなく、当初から罪にさらされていました。教会の中に生じる罪について、神様がどう対処なさったのかが、本日の聖書箇所に記されています。
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アナニアとサフィラの夫妻は、他の信者たち同様に土地を売って教会にささげました。しかしこの夫婦は、売れた金額を少なく見せかけて、バルナバのように全額をささげたように見せかけながら、その差額を着服したのです。この夫婦は、ささげものによって救いを証ししようとしたのではなく、自分たちの名誉を高めようとしたのでした。ささげものの目的外利用です。その意味で、この夫婦の心と思いは群れと一つではなかった、と言わなければなりません。
教会の一致を乱して、教会を解体させたい霊的勢力サタンが存在します。サタンに心を奪われる(=心が満たされる)と、人間は、教会を一致させた神様のお考えから逸れてしまいます。最初の人間アダムとエバ(創世記3章)の夫婦も、サタンに心を奪われて、禁じられていた木の実を食べてしまいました。サタンにそそのかされ、神様の言葉を無視してしまったのです。
サタンの言葉は、表面的には非常に甘美です。「あの木の実を食べることはあなたの益になる」「この財産はあなたがたのものだ。これを賢く使えば、名誉を手に入れつつ財産も残せる」などと唆してきます。
サタンは、教会を外から攻撃するだけでなく、教会に忍び込んで、教会内部からも破壊しようとします。教会は安全地帯ではなく、むしろサタンの標的です。教会こそ、サタンが目の敵とする神様によって、神様の救いを証しするために一つにされた唯一の共同体だからです。
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サタンに心を奪われた夫婦のごまかしを、ペトロは「聖霊を/神を欺いた」と表現しました。この夫婦は、人間の持ち物をではなく、「神様のもの」を着服したのです。
禁断の果実を食べたアダムとエバが神様からの恵みとしてあてがわれた衣服と土地を用いて生活したように、アナニアとサフィラも神様からの恵みを受けて豊かになり、ついに土地を所有するに至りました。財産を神様からの恵みと捉えるならば、教会へのささげものも「オレの土地を手放してやる」ではなく「神様から頂いた土地を神様のために手放す」ことになるはずです。ペトロが4節で言うように、アナニアとサフィラは誰かに強制されずとも自由に、神様のために、神様から任されたその土地と代金の権利を利用することができたはずです。
しかしサタンに心を奪われた夫妻は、「自由に」の意味をはき違え、その財産を「自分のために」自由にできると考えてしまったのです。
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神様が、神様のものを着服してしまったアカンという人物を処刑された事例があります(ヨシュア記7章)。神様はこの罰によって、「人は神様のものを着服せず、誠実に生きるべきだ」とお教えになったのです。アカンの罪と処刑のことは聖書に記されたので、後の世代もアカンと同じ過ちを犯さないようにと教えられます。
アナニアも、恐らく、アカンの事例を知っていたことでしょう。彼は「あなたは…神を欺いた」と聞くと、ショック死してしまいました。人の手によらない、神様による裁きを思わせる死です。イエス様は罪を赦し、また隣人を赦すようお教えになったお方です。神であるイエス様は、御自身に「罪を赦す権威」があることを表明されました(ルカ5:24)。罪は、神様によって赦されるのです。しかし誰も、神様を離れて勝手に罪を赦してはなりません。もしそんなことをすれば、アナニアの罪はうやむやにされ、群れに第二第三の着服が発生し、無法地帯となります。それこそ、サタンの思いどおりです。罪は罪として、神様によって厳しく対処されます。アナニアの死を知った人々は、神様の罪を罰する権威が鮮やかに示されたことで、非常に恐れたのです。
3時間後、妻サフィラがペトロのところに入って来ました。彼女はペトロに尋問され、疑われていることに感づいても、罪を告白せず、シラを切り通しました。そのことによってアナニアとサフィラが示し合わせた確信犯であったと確信したペトロは、彼女に、夫と同じ結末を辿るだろうことを宣告しました。実際その通りになったということを、使徒言行録は証言しています。
教会内での罪への処置「戒規」は、教会全体に恐れを抱かせ、それぞれを群れの一致の維持への思いと、罪の抑制の思いと、悔い改めに導きました。戒規によって、群れは崩壊を免れました。実に、戒規にも、群れの心と思いを一つになさった神様の愛が現れています。
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神様を欺く着服の罪は、教会の一致を破壊します。教会に集う私たちも、サタンに心を奪われる恐れがあります。私たちが、手元にあるものを自分で得たものだと勘違いするときには、心の中で甘くささやくサタンに侵入を許してしまっているのかもしれません。
神様は、私たちがサタンに心を奪われないために、聖霊で満たし、聖書の御言葉を与えてくださっています。御言葉に聴き従うことが、群れを一致させる神様の愛への応答です。私たちは、聖書に記されている救いを証しするために、教会にささげものをするのです。私たちが自分の生活のために使うお金も、私たちが人生を通してイエス様による救いを証しするため、神様が託してくださったものです。私たちはこれを着服しないで、救いの証しのために用います。
教会の中にサタンが入り込むことを、神様は放置なさらず、戒規という形で教会を守られます。戒規はショックが大きいので避けたいなと思ってしまいますが、聖書に記された神様の御心を知る時、私たちには戒規にも神様の愛を見出し、神様を恐れ敬うのです。
(牧師 伊藤築志)
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