聖書箇所:使徒言行録1章21-26節
前回(1:15-20)取り扱った、イエス様を裏切ったユダの末路については、25節で「ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった」というえん曲表現が用いられていることからも分かるとおり、思い出したくない・口にしたくないような悲惨な末路でした。しかしペトロは、ユダの一連の出来事に神様の御心の成就を見いだすようにと説きました。ユダの一連の出来事に御心の成就を見いだしたとき、イエス様の弟子たちの共同体は落胆から回復します。
ペトロの演説は21-22節まで続きます。使徒の補充もまた、聖書の預言に示された神様の御心に適うことであり、共同体の回復とイエス様に仕えるためとに必要でした。きょうは使徒補充の記述から、キリスト者が物事の決定を下す時に踏まえておきたい原則について学びます。
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ペトロは、新しく使徒となる人物の条件を二つ挙げました。一つは、イエス様が十一人の使徒たちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、使徒たちを離れて天に上げられた日まで、イエス様といつも一緒にいた人物であることです。そもそも使徒は「主の復活の証人」ですから、補充される新しい使徒はその務めを果たせる人物でなければなりません。イエス様の復活の場面だけでなく、それまでのイエス様のご様子を知る人物でないと、イエス様の復活を十分に証言できないのです。(映画のクライマックスだけ見ても、その映画の素晴らしさを語り尽くせないのと同様に。)
そして補充される使徒は「一人」でなければなりません。使徒の定員「十二人」には意味がありました(参考:ルカ22:30)から、二人補充され「合計十三人」になってはいけないのです。
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イエス様の弟子たちの共同体は、ペトロが提示した条件に適う人物を二人推薦しました。「バルサバ〔安息日の子、という姓〕と呼ばれ、ユスト〔正しい者〕ともいうヨセフ」と「マティア」です。ヨセフについては姓と二つ名も紹介されています。彼が誠実な人物で、共同体の期待を背負っていただろうことが伺えます。二人のうち、どちらかと言えば先に名を挙げられたヨセフの方に、軍配が上がりそうな気配があったようです。
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共同体は、候補となった二人をさらに一人に絞るにあたって、「くじ」を引いて選ぶという方法を採りました(26節)。くじは、確率で勝敗が決まります。くじに人間の恣意が入り込む余地はありません。さて、共同体が使徒の補充を「くじ」で行うとは、確率や偶然性に運命を委ねたということなのでしょうか。今回の使徒補充に限っては、そうではありません。なぜなら、彼らはくじを引くにあたって「祈った」からです(24節)。彼らは偶然性に委ねたのではなく、「くじという人間の恣意を排除した方法を通して、主の御心を示してもらおうとした」のでした。
祈りの対象は「すべての人の心をご存じである主」です。共同体はこのお方が選んだ(抜擢した)使徒をくじで示してもらおうとしています。使徒を抜擢するのはイエス様(2節)ですから、祈りの対象はイエス様です。聖書のほかの箇所で「すべての人の心をご存じである主」と呼ばれるのは、神様だけです。イエス様は既に天の御国へ引き上げられており、もう肉声を聞くことができませんから、共同体はイレギュラーな手段として、祈り求めながら「くじ」を引くことによって、神であるイエス様から御心を聞こうとしています。
「くじ」は、御心を聞こうとした旧約時代の先人たちも用いた手段でした(箴言16:33)。くじそのものは偶然に支配されているように見えるかもしれませんが、「神様の権能はそのくじをも支配しておられる」という信仰は、古くからあったのです。共同体は、まったく信仰的な判断として、万物を支配しておられる神様の主権を覚えながら、くじを引いたわけです。
どちらかと言えば共同体が期待を寄せていたのはヨハネの方でしたが、くじで選ばれ、使徒の一員に加えられたのはマティアでした。その結果について議論も反論も起こりませんでした。共同体が、くじの結果に主イエス様の御心を聞き取って、それを受け入れたからです。
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忘れてはならないことは、当時は約束された聖霊が共同体に降る前だったということです。それは、今の教会のように、会議に聖霊の導きがあるという信仰的な受け入れができない時代でした。だから、彼らはくじに頼らざるを得ませんでした。聖霊が降られた後の時代に生きる私たちは、教会の大切な決定をくじで決めたりしませんが、今日の御言葉からは次の3点を学び取ることができましょう。
①聖書の言葉に根拠を求めること。ペトロは、御言葉とイエス様の言行を示して、それに適う議題と方法で決定するよう説きました。キリスト者が何かの決定を下す時には、それが神様の御心に適う決定となるように細心の注意を払いながら、聖書の御言葉に根拠を求めます。
②祈りながら決めること。今の教会は会議を通して御心を示していただこうとします。会議は普通、人間の思惑が入りやすいものですが、教会の会議の場合は、その議論が聖霊によって導かれるようにと祈りながら会議を進めます。年長者やベテランの声でなく、神様の御心を聞くために、一年生議員にも同等の票と発言権が与えられています。皆様には、教会の会議が神様の御心に適う決定ができるよう、お祈りくださるようお願いします。
③決定を主の御心だと受け入れる謙虚さを持つこと。マティアが当選した時も、誰も反対しませんでした。もちろん、会議は罪の影響から逃れられませんので、「決定に対して絶対的に従う」というのは違いますが、御言葉に照らして妥当である限りは、その決定を信仰をもって受け入れるという謙虚さが求められます。
御言葉に根拠を持ち、祈って導きを求め、示された決定を信仰的に受け入れるとき、私たちは主イエス様の御心を聞き取ることができます。神様と私たちのコミュニケーション〔愛の交わり〕は、私たちの日々の営みにおいて、このように実現するのです。
(牧師 伊藤築志)
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