聖書箇所:フィリピの信徒への手紙3章17節-4章1節
キリストと出会って、人生が変わってしまった「キリスト者」がなすべきことは、ただ一つ、「後ろのものを思い出さず、前方にあるイエス・キリストが待つゴールに全身を向けつつ、そのゴールを目指してひたすら走ること」だけです(3:13-14)。実際、使徒パウロはそのように生きていました。パウロは17節で、その生き方に倣うよう、フィリピの教会の信徒たちに教えます。彼が「兄弟たち」と呼びかけるのは、信徒たちに上からでなく平等な関係として呼びかけているからです。またパウロはもっと身近な「わたしたちを模範として歩んでいる人々(すなわちキリスト者)」に目を向け、彼らを模範として、キリスト者として礼拝を続けるようにとも、教えています。
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パウロがこのように教えるのには、二つの理由があります。その一つは、世の中にキリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い(18節)という理由です。「キリストの十字架に敵対して生きる者」たちの生き方は、救いに関するキリストの十字架の必要性と十分性とを否定し、割礼その他の肉体的な事柄に救いを求める、キリスト者にとって恥ずべき(3:8)生き方です。パウロはそのような生き方を「腹を神とし、恥ずべきことを誇りとする」生き方と断じます(19節)。しかし残念ながら、このような生き方をする人が、世の中の大半を占めています。
未だ完全ではない、キリスト者には、人間的魅力にあふれた彼らの生き方に倣ってしまう危険があります。人間的魅力にあふれているように見えても、十字架に敵対して歩んでしまっている人々は多いのです。彼らから学ぶべき学識や技能ももちろんありますが、生き方まで彼らに倣うことは、キリストの救いでなくその反対の滅びに向かうことですので、警戒が必要です。
だから、パウロは、「世の中にはキリストの十字架に敵対して歩む者が多いから気を付けるように」と、何度も言ってきたし、今また涙ながらに言う(18節)のです。
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もう一つの理由は、「わたしたちの本国は天にある(20節)」ということです。「わたしたち」とは、パウロをはじめとした、キリスト者のことです。十字架の敵対者と違い、キリスト者は「本国(=市民権・国籍)が天にある」者として歩みます。「天」とはイエス様がおられるところで、キリスト者が目指すべきゴールのある場所です。私たちは今、地上(この世)に生かされていますから、「天」というのは、今私たちがいる場所とは違う場所です。「国籍が天にある」ならば、その人は地上ではある意味で「よそ者」として生活することになります。キリスト者は、地上ではよそ者ですから、世の多くの人と同じ生き方に縛られる必要がありません。むしろ積極的に、地上にありながらも天に国籍を持つ者としてふさわしく(1:27)生きるべきなのです。
天に国籍を持つ者としてふさわしく、他のキリスト者に倣ってひたすら走る生き方は、救いに至る生き方です。キリスト者は、地上でどれだけ走っても、イエス様がおられる天のゴールにたどり着くことがありません。神様によって天に移されるか、天そのものが地上に来るまでは、ゴールテープを切ることがないのです。「そこから主イエス・キリストが救い主として来てくださるのを、わたしたちは待っています(20節)」という言葉は、ゴールが地上に来て、自分たちも救いに至る日が来るという確信を言い表します。天に国籍を持つキリスト者は、そのゴールに入る当然の権利があるのです。キリスト者は、その時を待ち望みます。
キリスト者がゴールにたどり着いた時、万物を支配下に置くことのできるイエス様は、わたしたちの卑しい体(=滅びるべき人間本性全体)を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださいます(21節)。天の御国の市民であるキリスト者には、イエス様によって、いずれはその人間性が弱さや限界から解放され復活させられるという特権があるのですから、世に倣わず、「天の市民」としてふさわしく、いつもイエス様の御名によって神様を礼拝し続けるべきです。
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4章1節は、1章から3章までのパウロの主張がギュッと濃縮された節です。
パウロはフィリピの信徒たちに呼びかける際、「愛する者たち」と2度繰り返し、「慕っている(=離れがたい)」と言い、「兄弟たち」とフラットに呼びかけています。彼らはパウロにとって「喜びであり冠である(=福音宣教の拡がりを証しする栄誉)」とても大切な人たちです。
パウロがこの大切な人たちに書き送った手紙の中心点は「このように(=皆一緒にパウロに倣って)主によって(=キリストに結び合わされて)しっかり立ちなさい」ということです。「しっかりと立つ」というのは、この地上において、キリストの反対勢力に負けずに信仰を守り続けること(1:28)です。たとえ、迫害を受けても、誘惑を受けても、世に倣わず、パウロたちに倣って、キリストを追い求めなさい。人生の途中で礼拝をやめてはいけない。そのような切なる訴えです。
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「我々の本国は天にある」という句が有名なのは、愛する者を天に送ったキリスト者たちを慰めてきた句だからでしょう。しかしこの句は、既に天に移された者だけでなく、私たちキリスト者全員に関する希望をも与えます。キリストに出会って人生を変えられたキリスト者は皆、天の御国の市民としての特権を持っています。本来の居場所であるはずの天に自力で帰ることはできませんし、それがいつかを決めることもできません。それまでは地上でよそ者として生きなければなりません。地上で無理解と迫害に晒されて歩むことはある意味で苦しいことです。苦しさから一時的に逃れるため、世に倣って人生をうまくやり過ごそうとする誘惑に遭うこともあります。しかし私たちはそれに染まらず、「天の御国に国籍を持つ者」としての自覚をもって、胸を張って、背筋を伸ばして、主によってしっかり立ちましょう。
私たちの信仰は未だ完全ではありませんが、もっと強くなる余地もあります。天の市民としてこの地上でしっかり立つことができるように、聖霊の御力を祈り求めましょう。
(定住伝道者 伊藤築志)
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