top of page
検索
日本キリスト改革派 田無教会

2021年3月21日「神の家は祈りの家」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書 19章41-48節

  • メッセージ:中山仰牧師

 

 ここは宮清めと言われる個所です。エルサレム神殿には当時、祭司の庭、イスラエル人の庭、婦人の庭があり、その外側に異邦人の庭が低く設けられていました。そこでささげられる神殿税は古いイスラエルのシュケル貨幣で納入する決まりになっていましたので両替の必要がありました。また律法の規定に合う動物でいけにえをささげなければなりません。これらは旧約の律法を守るために必要でしたが、両替商や家畜市の利益は、遠い国からやってくる巡礼者にとっては、「強盗」のような搾取であると思えていたに違いありません。

 45節「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて」とルカはさりげなく書いていますが、これは明らかに一種の暴力行為です。主イエスには怒りがありました。神殿に群がり、それぞれの信仰に基づいてお祭りをしている人々に向かって、「あなたがたは強盗だ」とまで言いのけたのです。明らかに主イエスのなされた行為は、旧約律法の廃棄と神殿の廃棄を予表された行為だったのです。

 エレミヤ書7章1節以下<主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ。皆、主の言葉を聞けイスラエルの神、万軍の主はこう言われる。・・・4主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。・・・13Bそしてわたしが先に繰り返し語ったのに、その言葉に従わず、呼びかけたのに、その言葉に従わず、呼びかけたのに答えなかったなかったから、わたしの名によって呼ばれ、お前たちが依り頼んでいるこの神殿に、そしてお前たちと先祖に与えたこの所に対して、わたしはシロにしたようにする。わたしはお前たちの兄弟である、エフライムの子孫をすべて投げ捨てたように、お前たちをわたしの前から投げ捨てる。>

 19:41 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、19:42 言われた、とあります。ルカによる福音書で主イエスが「泣く」とあるのはこの個所だけです。

 涙を流された主イエスの続けた言葉を見てみましょう。。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。」という嘆きでもって始まります。「この日」とは神の訪れの時です。訪れとは、単に来るだけでは意味がありませんね。訪れて相手との人格的交流がなければ無意味です。そこで相手に接してじっと見る、目を注ぐ、見守るのです。そこで、それらのまなざしの中に見えてくるのは、悲しみであり、もろもろの苦しみだったのです。それらを慰めるためにこそ、そこに赴かざるを得ないことなのです。あなたに神が訪れる、すなわちその神から遣わされたわたしがここに来ていると主はおっしゃるのです。なぜそのわたしに耳を傾けないのかと主は言われます。

 私たちの祭りとは、礼拝です。礼拝は本来まさに神に属すべきものです。それを自分のものとして数え立てていないかということが問われます。もしそうならば、盗賊です。そのような意味で、主イエスに強盗と呼ばれた人々と私たちとははっきり違うと言い切れるのでしょうか。私たちの心に真実の祈りが、主イエスの喜んでくださるような祈りがあるのかということです

 現実に世界各地に争いがあります。抑圧されている人、差別されている人々がいます。私たちはそれらの人々を実際に助けることはできません。そのように抑圧されている人々や自分たちのために祈りを起こすことではないでしょうか。さらにコロナ禍で戦っている人々のために、また収束のために教会は今こそ一致して、礼拝でまた祈祷会で家庭で個人で祈ることが求められていることは間違いありません。

 その時、大きな希望になって来るのはやはり神の祝福の言葉です。預言者イザヤは、神殿で安息日を守ることと祈りに結び付けて預言しています。そこをご一緒に読んで確認しましょう。イザヤ書56章1節<主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業が現れるのは間近い。いかに幸いなことか、このように行う人、それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人、悪事に手をつけないように自戒する人は。・・・宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らのためにとこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して忘れることがない。また、主のもとに集って来た異邦人が主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら、わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家を呼ばれる。追い散らされたイスラエルを集める方、主なる神は言われる。既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。>

 私たちの思いを超えて、人間の罪の恐ろしさは世界の情勢を見る時に希望を失いかける程です。しかし、だからこそ主イエスはその悪の地上にお生まれになられた。私たちと同じ人の形を取られ、徹底的に私たちに仕え、そして十字架に死んでくだり、そこからお甦りになられたのです。そのお方が「今から始まるのだ」と宣告されて十字架へ向かってくださいました。私が来たのは、あなたがたが罪から自由になるためなのですよ。あなたがたはもう強盗ではない。もういつでも主に祈る人間となっているのですと御霊なる神は教えてくださいます。だから、あなたたちは下を向いていなくてよいのです。上を向いて歌を歌えるのだと励ましてくれます。暗黒の力が今なお支配しているようですが、わたしが死から甦ったようにわたしを信じる者は必ず甦りの時が来ます。その歌を共に歌い始めましょうと。


田無教会牧師 中山仰

閲覧数:39回

コメント


bottom of page