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日本キリスト改革派 田無教会

2020年11月1日「心からなる祈り」主日礼拝


  • 聖書箇所:新約聖書 ルカによる福音書18章9-14節

  • メッセージ:中山仰牧師

 

ルカの二重性は、前段の「やもめと裁判官」の「不正な裁判官のたとえ」とここの「ファリサイ派の人と徴税人」の二人の祈りのたとえ話で、祈りの教えが続いています。

 ファリサイ派の人は「感謝します」と祈っています。その感謝の内容は、表裏両面からなされています。第一点は消極的といいますか、「ほかの人たちのように」ではないことです。これこそ自分たちは他の一般の人たちとは違うという分離、すなわち「ファリサイ」という意味なのです。わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを堂々と告白しています。第二点は積極的感謝です。18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』と祈ります。

 それとは反対に、罪人の代表である徴税人は礼拝所から遠くに立って、手も目も天に上げようともしないで、胸を打ちながらの状態です。「胸をたたく」とは死人の喪の時にする表現です。死人同然で、『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と告白しています。

 ところが主イエスは、18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。と認めてくださっています。

 ルカ14章7節以下で「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない」のところで警告されていたように、「あなたより身分の高い人が招かれて」お出でになっていることに気が付かなければならなかったということを強調していました。すでにそのお方イエス・キリストが上座に着かれるのですから、ファリサイ人は席を譲ってくださいと言われていたのに、それをまだ認めていないということが問題なのです。

 つまり、これは「あなたより身分の高い人」すなわちメシアが来るときに起こる終末的な逆転劇なのです。そのメシアだけが、礼拝において終末の先取りを予告なさることができるのです。「人の子の日」とは、「いつ、どこで」というような観察や取材する準備はありません。迫害下にある選びの民にとっては、それはそのようなカレンダー以上の信仰の問題だったのです。まさに「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか。」という切羽詰まった問題だったのです。

再臨される主を私たちは鮮やかに、近くに相まみえるならば、その生き方は変わってくるのではないでしょうか。特に、祈りにおいてもはやこの徴税人のような祈りしかできないはずです。しかし、主は悔いる者に対して、18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。という赦しの言葉を忘れてはなりません。ですから、今日、主の御声を聞いたなら、心から悔い改め、感謝をもって主の招きに預かろうではありませんか。

【聖餐の恵みを覚えて】

 コロナ禍の中にあって聖餐式ができませんが、聖餐の恵みを改めて覚えましょう。

問53 聖餐(主の晩餐)とは何ですか。

答 イエスさまが命じられたとおりに、パンとぶどうジュース(ぶどう酒)を用いて行われる礼典です。それにより、イエスさまの十字架でさかれた肉と流された血によってなしとげられた救いを覚えます。聖霊によってイエスさまと結び合わされて、罪の赦しと永遠の祈りの祝福に養われます。神さまの子どもたちといっしょに祝いながら、再び来られるイエスさまを待ち望みます。

問54 だれでも聖餐(主の晩餐)にあずかれますか。

答 いいえ、幼児洗礼を受けていても自分で信仰を告白していない人、また、洗礼を受けていない人は、あずかれません。私たちは、一日も早くその人たちが聖餐(主の晩餐)の祝いにあずかることができるように祈ります。

 ウエストミンスター信仰告白29章8節では、そのように聖餐の意味を本当に知らない人が、「礼典において外的な品(パンとぶどう液)を受けても、それによって示されているものを受けないばかりか、彼らがふさわしくないままでこれに近づくことによって、キリストのからだと血とを侵し、自分にさばきを招くのである。」また「キリストに対して大罪を犯すことなしにこの聖なる奥儀あずかり、あるいはあずかることを許されることはできない。」とはっきり告白されています。

ところで、この聖餐に預かることができる者は、特権意識ではありません。徴税人のように、礼拝所や祭壇から遠く建て、目を天に上げようともせず、まともに礼拝すらできない様で、胸を打ちながら、「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」と心から求める者だけが預かれるということなのです。本来主の聖餐に預かるのにふさわしいから預かるのではなく、ただ聖なる神の御憐れみの故に招き入れられているからです。

ウエストミンスター信仰告白第29章の1節<わたしたちの主イエスは、渡される夜、主の晩餐と呼ばれる彼のからだと血との礼典を制定され、彼の教会において世の終わりまで守るべきものとされた。それは、彼の死によるご自身の犠牲を不断に記念するため、その犠牲のすべての祝福を信の信者に保証するため、彼らのキリストにある霊的養いと成長のため、彼らがキリストに対して負っているすべての義務を更に履行するため、またキリストの神秘的からだの肢体としての彼らのキリストとの交わり、また彼ら相互の交わりのきずなと保証になるためである。>このように、キリスト・イエスは、その恵みを罪深い私たちに与えるために、私たちの罪の身代わりとして十字架にかかってくださったのです。ここに計り知れない神のご計画と恵みがあります。


田無教会牧師 中山仰

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